科学と芸術 [日記・写真]
初めて出町柳まで足を運びました。京都に行っても四条、三条あたりで電車をおりるので、出町柳行きの電車をいつも利用しているのですが出町柳に実際に行ったのは初めてです。
何をしに行ったかと言うと、個展とトークショーを聞きに行きました。個展はART OSAKA 2014 でインパクトの強い作品を出されていた野村康生さんの個展。
トークショーはその野村康生さんと京都大学の准教授の方とのトークショーで、タイトルは「科学と芸術」。科学と言うワードに惹かれて話を聞きたくなりました。
トークショーはお互いの生き残り戦略というか将来的ビジョンについて、という面が強く、科学と芸術という違う学問がどう繋がっていけるのか?と言う接点の提示の様な形に私には響きました。
科学的見地から言わせれば、アートの存在価値は非合理的であると。何で人は美しいものに惹かれるのか、それがなぜアートに向かうのか?という疑問が残ります。
芸術的見地から言わせれば、種の多様性はなぜ生まれたのかと。個々の生物が生き残って行くために色々と派生してきたのはわかりますが、なぜここまで多様化してきたのか?という疑問が残ります。
科学的見地から「アート」に対して、合理的な解が見つかれば、枠にはまったものしか「美」として受け止められなくなる。その先には一つの完璧な美のテンプレートが出来上がってしまう。
芸術的見地から「優れた種のみが残ってしまえば」と言う条件をつければ、脳みその発達した人間だけが残ってしまう。
でもアートも種も多様化することによって存在してきたという歴史があります。
「美」についてテンプレートができあがってしまうということは、「人類のためだけに存在する社会」ができあがってしまうくらいの問題なんだと言う認識までには至りました。
しかし、今現在アートはむしろ多様化し、我々人間以外の生物も環境にあわせて生存しています。その中で進化と帰化を繰り返しながら調和を取っているということはできます。
もしも画一化された世界ができあがってしまったら、もはや芸術も科学も価値を持たなくなってしまうわけです。
だからこそ、私は思うんです。好きなものを好きって言えばいい。好きなことを好きなように選択すればいい。と。
それぞれが好きなことを追求した上で成り立った世界が、画一化されたものとなってしまっても、その過程を振り返ってみれば過程に価値がありさえすればまた次の未来を模索する動きが自然と発生してくるはずです。
だからね、私たちなんて数十年しか生きれないんですから好きなことしないとダメなんですよ。もちろん意味を持って、好きなことを追求すべきです。好きなことを追求することも大変。でもどーせなら好きなことやって死ぬ時やってよかったなって思えた方がいいですよね。
てことで、私は真っ先に好きなことを優先して生きていきます。
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